地下鉄三号線のこと
2000-01-01 00:04:20
「地下鉄が平針にくるんだげな」
昭和30年代なかばに団地が建ち、平針が名古屋のベットタウンとして新たな活気を帯びて以来の、 大きな変革が起ころうとしていた。
地下鉄が来れば便利このうえないが、高架式と地下式では雲泥の差がある。しかし市の計画では経費の関係もあり、工事費の安価の高架式となっていた。
天白区は先に設置された名東区の高架式の路線をこの目で見ている。
高架にすると名東区のように南北に両断されてしまう恐れがあった。
そこで天白区は高架式反対期成同盟を結成。小島忠二氏が代表となり、昭和44年に高架式反対を市に提出した。
時の名古屋市議会長冨田一雄氏がその書類を受け、即答は出来ないものの、検討に検討を重ねるうちに3年の月日が経過してしまった。
そして次期市議会議長となる松野鉄次郎氏が、昭和47年3月に本会議常任委員会へ審査のため書類を提出。
当時の天白区選出市議会委員であった加藤定氏等の並々ならぬ努力により、天白区は地下式となった。
ついで、伊東弥十郎氏が市議会議長の時、正式に採択となって、昭和53年10月1日に開通の運びとなった。 その時の書類は下記の通りだった。
今は「主要地方道路名古屋―岡崎線」となってる道を153号線バイパスと呼んでいた頃、 その道の北側ははるか天白川まで西住宅と数軒の家があるのみだった。
それが地下鉄開通以後、あれよあれよと言う間にマンションや商店であふれ、 あらためて地下鉄の持つ力に驚かされたのでした。
そして10数年が経過し、今(平成10年現在)、平針を国道302号線が南北に貫こうとしている。 平針の町は一時の休みもないようです。