平針の街並(東側)


慶長十七年に徳川家康が開いた平針街道は、時代が変わり世が移ろいでも何しろこの道しかなかったので、たくさんの人が行き交いました。

 

多くの商店が軒を連ね、
「平針へ行けば何でもある」
「たいがいのものは平針でまとまる」
と、近郷近在の人々が地元では買えない品々を求めて平針に集まってきていました。

 

昭和三十年代。私営住宅が造られ人口は増えたものの、世の中はマイカ-時代。 人々は車に乗って平針を通過して街へ出ていくようになってしまったのです。

さらに一本しかなかった道がだんだん増え、新しい道路の発達に杜もなって旧道沿いの商店は一軒、 また一軒と店仕舞いをして寂れていってしまいました。

 

そして今は昔。

微かな記憶をたどり、あるいは古老にうかがって、あの賑わった平針の街並の再現を試みてみました。

今こうして並べてみると(地図参照)、ちゃんとした屋号を付けている商店(あきにゃあや)は少なく、 ほとんどがそのオ-ナ-の名前を屋号としていたようです。
面白いことに、店をたたんでしまった現在でも呼び名はそのまま。 このことは別にあきにゃあ屋さんに限ったことではなく、一般の家でも同じです。

平針の家々はいつになったらお祖父さんや曽祖父さんの名ではない、 当代御当主の名前で呼ばれるのでしょうか。

 

 

商人宿 : 大作さ


なにしろ江戸の昔から塩やリンゴを担いで、あるいは引いて商人が行き交った土地です。
時代が移り大規模な流通は、鉄道など他の輸送手段が取って変わったのですが、小商いはそのまま。 いわゆる〃担ぎ商人〃達はあいも変わらぬいでたちで、この街道沿いを行商していたわけです。

 

そんな人たちが便利重宝に宿泊していたのがこの「大作さ」です。

宿と言っても平屋で、部屋数は五間程だったと記憶しています。
富山の薬売りがよく来ていましたが、その他にも仕事や用事の人も利用していたようです。 今ならさしずめ、ビジネスホテルといったところでしょうか。

 

あんまき・ういろ : 兵三さ


兵三さの餡巻やういろはすべて自家製でした。
味が良いと評判で、遠くからも買いに来ていたようです。

 

兵三さ食料品・酒 : 亀さ


食料品といっても、今日のス-パ-などとは違います。

ちょこちょこっとした物と日本酒の類が並べてあるこじんまりとしたお店でした。 ここのメインはコップ酒や茶碗酒の立ち飲み。ほんの少し前まで、 どこの酒屋さんでも店先でお酒を飲ませてくれたのです。

 

戦後もずいぶん経ってからの頃は同じ立ち飲みでも、 つまみにさきイカやピ-ナッツの袋を破って食べていたのですが、 この「亀さ」が営業していた時代では塩か味噌をなめながらお酒を飲んでいたようです。

 

勤め人にしろ、農作業にしろ、一日の仕事を終えた後の一杯は格別なもので、夕方になると「ちょっと一杯、きゅっと」やる人が集まってきていました。酒好きの誰かさんに言わせると、

「いかんぎゃあ、亀さの前を通るとヨォ自転車が止まっちゃうでいかんぎゃあ」
だったのだそうです。

 

引き売り : 平屋さ


引き売りとは荷車などに商品を乗せて売り歩くことです。

今でも移動ス-パ-や牛乳やさんなどがありますが、昔はいろんな種類の引き売り屋さんがいました。 物干し竿、竹籠、金物などなどです。

 

それぞれ、どうやってこんなにもたくさんの荷物を積んだのかと思うほど、 リヤカ-に満載して自転車で引いていました。金物屋さんは鍋釜を売るだけではなく、 修理までしてくれたと記憶しています。

後になって「ロバのパンやさん」も来るようになり、ラフルな荷車をロバに引かせてパンを売っていました。 ロバのパン屋さんの歌が聞こえると、子供たちは一斉に通りに飛び出していったものです。 これも、引き売りの一種でした。
平屋さは、乳母車に屋台を付けて引き売りをしていました。

貝やこんにゃくなど平針では産出しない品々を持ってきてくれていたので、ずいぶん重宝したものです。

 

カフェ- : 双葉


カフェ-とはコ-ヒ-のことですが、喫茶店ではありません。
お酒があってキレイなお姉さんがいましたから、今で言えばバ-のようなものです。

 

当時、平針の女の人は装う必要がないほどに美人揃いだったので、ほとんどの人がスッピンのノ-メ-ク。 ですから化粧をしたカフェ-の女の人が大変めずらしく新鮮にみえたようでした。

今(平成10年現在)の七十代以上の方々の中には、甘酸っぱい思い出をお持ちの方もいらっしゃるのではないでしょうか。

 

喫茶みかど : 信二さ


こちらは正真正銘の純喫茶。美味しいコ-ヒ-を飲ませてくれていたのです。

なにせ戦前の平針はたくさんの人々が行き交う“町”でしたから、当然喫茶店ぐらいあったわけです。

 

他所から引っ越して来た人たちが時々、「平針のお年寄りは喫茶店へ行くのね」 と驚かれたりしているようですが、かつてのシティボ-イ、シティガ-ルなのですから当たり前。

「お-い、おりゃあすきゃあ。モ-ニングやりに行こみゃあ」
と今日もおシャレなお誘いが各家々の庭越しに交わさていれるのです。

 

駄菓子・氷 : 半七さ


このようなお店は、昭和の三十年代いっぱいまではどの町にもあったのではないでしょうか。
お菓子もアメも袋入りなどは少なく、ほとんどがガラスのビンやガラス蓋のケ-スにドサッと入っていて計り売り。 キャラメルだって「五個ちょうだい」とバラ売りを買うことができたのです。
買ったお菓子を木の椅子に腰掛けて頬張り、友達とおしゃべりを楽しんでいました。

 

ここ半七さには子供の他にお年よりなどもよく寄っていましたから、 さしずめ老人と子供のサロンであったわけです。

 

玉突き 東(あずま) : 正三さ


その昔、玉突きが全国的に大流行した時代がありました。今の八十歳代の方々の青春時代のことです。
玉突きとはもちろんビリヤ-ドのことです。

 

「ちょっとおらんと思ったら、すぐ玉突きに行ってけちゃがる」
と親の眉をひそめさせていたこの流行も、日増しに濃くなる軍事色に塗りつぶされていってしまいました。

若者が遊びに打ち興じるのは、大人にとっては面白くないことなのでしょうが、 平和の証拠でもあるわけですから、その意味では目出度いわけです。

 

飲料水・ラムネ : 多四郎さ


大型の自動販売機を二台並べても、納まり切れないほどたくさんの清涼飲料水が今の世の中にはあります。 昔はラムネ、サイダ-、ミカン水といった程度。 咽が渇けば水を飲むのが当たり前だった時代に、これらがいかに美味しく嬉しい飲物だったことか。 とりわけラムネはビ-玉で栓をしてあるあの独特のビンの形も手伝って人気ナンバ-ワンの清涼飲料水でした。

 

いったい、このビ-玉はどうやってビンの中に入れたのだろうと、子供たちはラムネを飲むたびに考え、 飲み干せば、今度は何とかしてビ-玉を中から取り出そうと頑張ったりしていたのです。

 

多四郎さの家の横の空き地には、このラムネのビンが箱に入って山積みになっていました。 ここで作られたラムネが多くの人の咽を潤していたのですが、清涼飲料水にもやはり時代の波があり、 コ-ラなどが世を席巻し、やがて作られなくなってしまいました。

 

ここのところのレトロブ-ムでラムネもちょこちょこ見かけるようになりましたが、中身が少し違うようです。
近代のラムネの甘味は咽に焼き付くので、口直しに水を飲まないとよけいに口が渇いてしまいます。

冷蔵庫といっても木とブリキのもので、なんとなく冷たくしただけのラムネだったのですが、 あの咽越しのうまさやゲップにも漂う爽やかな香りが忘れられません。

 

糀屋 : 宗太郎さ


こちらの取り扱い商品は糀のみ。

当時、たいがいの家庭では味噌や醤油は手作りだったので、糀は生活必需品。 糀だけでも十分商いができたのだと思います。

大豆を煮てつぶし、糀と塩を加えて漬け込んだ味噌はまさに手前味噌、味も風味も抜群でした。

「味噌は煮えはな」とか言って、味噌を煮たぎらせるのを嫌いますが、 自家製の味噌は煮てもたぎらせても風味を損なうことはありませんでした。

 

平針の女の人はこまめで働き者の人が多いので、こんなに市販の味噌や醤油が出回っている現在でも、 あいかわらず自家製の味噌を作っている人がいると聞きます。

何かの機会があったら、ぜひ舐めさせてもらってください。

 

自転車 : 久野さん / タンス店 : 甚久さ


この二軒は同族の人がそれぞれに営業していたのですが、 現在では両方を一人の人が引き継いで経営しています。

 

菓子屋 : みなもとや  ゲンパ


お馴染みの駄菓子屋です。

ここは平針にしては珍しく「屋号」がついているのですが、子供たちはみな「ゲンパ」と呼んでいました。 初代オ-ナ-が源八さんだったからです。

駄菓子が並び、夏はかき氷、冬はお好み焼きやおでんを割烹着姿のおばちゃんが作っていました。 お好み焼きの鉄板台の回りには木製の丸い椅子が数脚、お店の前にも縁台と呼ばれる背もたれがないベンチのようなものが置いてありました。

 

ゲンパの奥のほうで、いつもおばあさんが餅をついたりこねたりしていましたから、 店に出ている生菓子の類は全部手作りだったのだと思います。

菓子を食ってはしゃべり、お好み焼きをつついてはしゃべる楽しい楽しい子供の集会所のようなお店でしたが、 東京オリンピックの後の記憶がないので、その前後に店をたたんだのかも知れません。

 

塾やお稽古事に子供たちが追い回されていなかった良き時代の話です。

 

呉服屋 : こめやす


この辺りで一番の呉服屋さんでしたが、息子さんたちが次々に戦死されて店をたたんでしまいました。

しかし、お孫さんたちが立派に成長して各方面で大活躍されています。

 

うどんや : はっくらや


今のうどんやさんはテ-ブル席があって、半分座敷もあってというスタイルがほとんどだと思いますが、 はっくらやは全部畳敷きになっていました。

十五、六人が座れたでしょうか。 奥の厨房には大きなお釜が三つ、いつもうどんを茹でる湯気でもうもうとしていました。

 

何度も繰り返すように平針は賑やかな町だったので、農村地帯にあったとは言え専業農家はごくわずか。 ですからはっくらやのお客さんはほとんど地元の人々だったのです。

 

米屋 : くんじさ


住民のほとんどが田畑を持っている平針では米を買う人はいませんでした。
こちらは米屋は米屋でも精米所だったのです。

 

米作りをしている人の中には、村外れにある水車小屋で昔ながらにコトコトコットンと精米する人もいるにはいましたが、 たいがいはくんじさでやってもらっていました。

「まあ忙しいでよう、自分たちで食う分ぐらいはくんじさでシャ-とやってもらうだがね」
ということだったようです。

 

米屋 : くんじさ


住民のほとんどが田畑を持っている平針では米を買う人はいませんでした。
こちらは米屋は米屋でも精米所だったのです。

 

米作りをしている人の中には、村外れにある水車小屋で昔ながらにコトコトコットンと精米する人もいるにはいましたが、 たいがいはくんじさでやってもらっていました。

「まあ忙しいでよう、自分たちで食う分ぐらいはくんじさでシャ-とやってもらうだがね」
ということだったようです。