平針の街並(本町)


 

薬 : 永太郎さ


かつて、薬屋と言えば生薬(きぐすり)と呼ばれる和漢薬を取り扱っているお店のことでした。

内服薬ではトンプク、ダラスケ、赤玉。 外用薬では蛸の吸い出し、膏薬。その他センブリ、ドクダミ、中将湯などのセンジ薬がお店の中に ぎっしり並べられていました。

「富山のどくけし売り」が商っている「置き薬」も同じような品々でした。 昔はお医者様にかかるのは余程の時で、ちょっと具合が悪い程度はこのような和漢薬で治していたのです。

 

時を経るとだんだん新薬らしきものが薬棚に並んでくるのですが、頭痛にノ-シン(たぶん脳神経から名付け)、 血を増すマスチゲン、ワカモト(若さの元?)など、まことに効きそうなネ-ミングがその時代を反映してたと、 今にしてみれば思うのです。

 

和一はもちろんのこと淳子の時代でさえ、これらの薬は各家庭に常備されていたいました。

現在、ドラッグストア-には横文字の化学的お薬がずらりとならんでるのですが、 どうしても永太郎さに置いてあったような薬に手が伸びてしまいます。

人間はその人の世代を一生引きずって生きていくものらしいのですが、 薬も同じなのだなあとしみじみ感じてています。

 

農商銀行


「昭和枯れすすきの時代」を実体験として記憶している人はいったい何人いることでしょうか。

大正末期から昭和初頭にかけて、日本は大変な不景気に覆われました。町には失業者があふれ、 「大学は出たけれど」という言葉が流行ったのもこの時代のことです。

 

「銀行が潰れる」という恐ろしい不景気のその時代に、この農商銀行も倒産してしまいました。

取り付け騒ぎを経て、預けていた貯金が全部フイになってしまった苦い経験をお持ちの古老の方々も多いと思います。 しかし、激動や紆余曲折を経て日本は立ち上がり、繁栄を繰り返すことが出来てきたのです。

平成の現在はかつてのあの時代に良くなぞられますが、歴史を振り返れば「絶望」にうちひしがれる事もないのではないかと思います。

 

村瀬新聞店


旧街道の中央付近に村瀬新聞店はあります。

斜め向かえの現平針消防団詰所が平針宿の本陣跡ですから、この辺りを「本町」と呼ぶのもうなずけます。

会社沿革

※ 会社沿革のページをご覧ください。

荷車屋


旧街道の地図には載っていませんが、本町辺りには荷車屋がたくさんありました。 それだけ物流が多くあったということです。

物流の運搬手段の主役がトラックに変わるまでには、なかなか長い年月を要したので、 戦後のしばらくはまだまだ荷車が多く行き交っていました。

 

現在(平成十年)の六十代のご婦人の中には、この荷車に楽しい思い出をお持ちの方もいらっしゃるかと思います。

彼女らが女学生の頃、名古屋の(昔は八事の坂を越えると名古屋と言っていたのです) 女学校に通うには、八事からは公共交通機関が整備されていましたが、 どうかすると平針-八事間は徒歩で行かねばなりませんでした。

 

往きは良い良い帰りは恐いで、下校時はもう歩きたくありません。 そこで平針乙女達は皆、なんとなく八事で待ち合わせをし、 集まったところで荷車に手を振って乗せてもらっていたのです。

名古屋や熱田の市場に荷を下ろした車が、けっこうたくさんあったようです。
どのおじさんも顔見知り、不便ではあっても良い時代だったようです。