平針の街並(西側)


 

わたや


「わた打ち」とか「ふとんの打ち直し」という言葉を知っている人は今、何人いるでしょうか。

一時代昔の主婦の仕事は、それは小まめなものでした。
本人達は便利なものがなかったり、何でも売っていたわけではないからと謙遜しますが、 なかなかどうしてマネできるものではありません。

 

その中でも「おふとんの手入れ」は、「本当はしなければいけないことだけれど、 面倒くさくてやりたくない」家事の筆頭にです。

冬の間、天気の良い日を選んでは小まめに干していても、 おふとんはぺちゃんこに固くなってしまいます。 昔のお母さんは春になると、冬蒲団を全部ほどいて作り替えてしまうのです。

 

外の布はお洗濯。中身の綿はと言うと、ここで出てくるのが先程の「ふとんの打ち直し」です。 ガチガチになったわたをほぐし、場合によっては新しい綿を足して、フカフカの綿に再生させるのです。

大きなハトロン紙に包まれてドカッと綿が戻ってくると、 これまたお天気の良い日にお母さんはおふとんを仕立て直しました。 ふとんの形になっている綿の上に、薄く薄く真綿をのばします。 これは綿がふとんの中で千切れてしまわないようにです。

 

お母さんの手は日頃の家事でザラザラに荒れているので、真綿が引っかかってしまいます。 まだ手が柔らかい子供たちが、この工程だけお手伝いしたものでした。

それから、すでに縫い上げておいた「がわ」で包み、所々を糸で止めてできあがりです。 手ぬぐいで「あねさんかぶり」をしていても、お母さんの髪は綿埃で真っ白になってしまいました。

 

この「わた打ち」をしていたのが、わたやさんです。
わたやさんはやがてメリヤ製品や呉服を扱うようになり、今日にいたっています。

 

竹屋 : 竹作さ


竹作さの所では、竹製品や竹細工ではなく、竹そのものを売っていました。
軒先や店の中には長い竹がたくさん、壁にもたせかけるように並んでいました。

この竹は壁土の中に編み込む「細枝(こまえだ)」にするものです。

 

はたご : 日の出屋


宿場町平針が紹介されるごとに登場してくるのが、この日の出屋さんです。

平針が「駅」となり、「宿」と定められてから数百年。多くの旅籠や商人宿が並んでは消え、 時代の推移とともになくなっていった中で、最後まで営業を続けてこられた商人宿です。

行商の人々が投宿したのはもちろんのこと、この天白が大住宅地に生まれ変わる直前の頃には、 中部電力の工事の人たちも大変重宝に宿泊したのだそうです。

 

昭和五十年代のまだ平針市場があった頃、日の出屋のおばあさんが「今日は泊まりの人があるで」といいながら、 魚屋さんで宿泊客用のお魚を買っていました。 長年の常連さんとかで、「わしんとこによう、泊まらすとあてにしてござらっせるで」と、 おばあさんは嬉しそうに言っていました。

その行商のお客さんも、旅先になじみの宿があって、親しい口をきいてくれるおばあさんがいて、 家庭料理でもてなしてもらってで、ずいぶん嬉しかったことだろうと思います。

 

なにごとも近代化は便利、重宝、手軽で良いのかもしれませんが、その分まことに味気なく、 商人宿「日の出屋」のような情緒は望めなくなってしまいました。

 

酒屋 : 丸梅さ


平針にはけっこうお酒屋さんがありました。しかし醸造元、いわゆる造り酒屋は皆無です。
この辺りの水は「そぶ水」といって金気が多いので、酒類の醸造には不向きなのだそうです。

昔の酒屋は計り売りが多く、そのための「通い徳利」がありました。 薄鼠色の地に茶色で「丸梅」と大書きしてある通い徳利を まだお持ちのご家庭もあるのではないでしょうか。

 

八百屋 : 八百末


「八百屋さん」という響きの何という懐かしさでしょうか。
夕暮れ時の商店街をエプロン姿のお母さん達が、八百屋さん籠を片手に歩く姿が目に浮かびます。

「奥さん、今日はエエ法蓮草が入ってきとるでねェ、おひたしやったって」
「この大根はおろしていかんよ、ピリピリだで。オツイ(味噌汁)の実がエエよ」
などと、本日のおすすめ品やら野菜の美味しい食べ方を八百屋さんは大きな声で説明してくれて、 その声にお母さんは野菜を手にとってみるのでした。

 

八百末さんもそんな八百屋さんの一つでした。
夏になると店先には大きなタライが出してあって、スイカやキナウリなどが冷たい水で冷やされていました。

今は何もかもがパック詰めになっていますが、昔は全部がバラで山積みになっていました。

まとめ売りはザル盛りのひと山くらいで、あとは「モヤシをひとつかみ」とか、「エンドウを200グラム」 とか言って買っていたのです。

包装は新聞紙。八百屋の人が作ったのか内職の人に頼んでいたのかはわかりませんが、 きれいな袋になっていました。

資源の無駄使いもエコロジ-も皆「あの頃」に戻れば解決するのに。

 

豆腐屋 : 久野さん


昔の日本人は早起きでした。
「お天道さまが出とらっせる」のにお蒲団のなかにいたのでは「バチがあたる」のでした。

「朝は朝星、夜は夜星、昼は梅干し頂いて」働く日本人の中で、 最も早起きなのがお豆腐屋さんだったのではないでしょうか。 明け方にはもう大豆を炊く香ばしい匂いがプ-ンと近所中に漂っていたのです。

 

久野さんはずいぶん大規模にお豆腐を作っていました。
お隣の八百末さんの井戸も冷たくて「エエ井戸だに」と評判だったのですが、 久野さんの井戸もきっと良質な水を豊富に湧出していたのでしょう。

 

戦争末期から戦後にかけて、農村地帯の平針でもお米に事欠くようになってしまいました。
非農家の家々は久野さんのところでオカラを分けてもらい、オカラ団子を作って代用食にしていました。

 

時代が流れ、代が替わって、お豆腐屋さんはいつしかモ-タ-ス屋さんになってしまいました。

 

髪結い : きりさ


美容院はパ-マをかけたり髪をセットしたりするところですが、髪結いは日本髪を結うところです。
日本髪はけっして自分ではできませんから、女が髪を結っていた時代には、 「女房の髪結い代くらいは稼ぐ」のが亭主たるものの最低限の務めであったようです。

 

「女は男の持ちものだから、女房を見れば男の甲斐性がわかる」とも言われていました。 男女同権の世の中でこんなことを言ったら怒られてしまいますが、 それはそれで昔は夫婦間でもなかなか粋な関り合いが日常生活の中にあったわけです。

例えば新しい下駄や草履をおろす時、「最初にちょっと旦那様に履いてもらいなさいね」 なんて言葉がおばあちゃんの口から出ます。

これは男の人の大きな足で一回履いてもらうと、鼻緒が緩んで楽に履けると言う生活の知恵なのですが、 なんだか感じが良いなァて気がしませんか?

 

明治、大正、昭和と時代がすすみ生活全般が洋風になっても、 女の人たちは正式な時やオシャレする場合には日本髪に結い上げていました。

奥さんは丸髷、娘さんたちは桃割れです。
このように生活様式や文化が変わってもなかな変わらなかった日本女性の髪型も戦後、 一気に変化していってしまいました。

 

昭和も三十年代に入ると、お正月に日本髪に結う奥様の姿は皆無となり、 わずかに水商売の女の人が懐かしい文化を留めるだけとなりました。

髪結いのきりさもいつしか西側の商店街には見られなくなりました。
女の人は皆、日常の手入れが簡単で、活動しやすい髪型を選ぶようになったのです。 それだけ出番がふえたということなのでしょうが、「髪がくずれるから……」と、 髷を結っている間は亭主に甘えて、いろいろ手伝ってもらうようなしっとりした場面もなくなり、 なんだか残念です。

 

パン製造 : 国勢軒


大阪で修業を終えた村瀬清四郎が、パン製造を開始したのは昭和初期の事でした。

その頃の西側は、お店やさんがずらりと軒を並べた良い商店街で、 その間を名古屋の東田町から出た名鉄バスが信州の飯田へと走っていました。

当時のバスは一日に一往復で、手を上げれば止まってくれたのですが、 このあたりではだいたい町の中央辺りにあるこの国勢軒の前が停留所のようになっていました。

 

清四郎は小まめで働きものだったので、店はどんどん規模を拡大し、 いろいろな商店に卸をするほどになりました。

主な商品はあんパン、ジャムパン、クリ-ムパンなどの菓子パンでしたが、 その他に落雁(らくがん)の注文製造もしていました。

落雁は穀類の粉に砂糖をなどを混ぜて練り、型にはめて乾かした干菓子の一種です。

鯛や松竹梅の型に抜かれ、赤・緑・黄色に彩られた落雁は主にお目出たいときの贈答品や引出物に 使われていました。
国勢軒には尺六寸と言いますから、五十センチもの大きな落雁が多く注文されていました。

 

こんなに盛んな国勢軒でしたが、大黒柱の清四郎が打ち身が原因で無理が出来ない身体となり、 同時に国情も悪くなっていたので敗戦前には店をたたんでしまいました。

 

医者に言わせれば「ひび割れた火鉢のような身体」となった清四郎ですが、 持前のバイタリティと知恵はいささかも衰えを知らず、 国勢軒閉所後は持田を資本に今で言う建て売り住宅の業界に進出し、成功を納めました。

その清四郎に「何から何までそっくり」と言われているのが、 その四男で消防団の連合会長(平成十年現在)である村瀬勝彦氏です。

 

大衆食堂 : げいこ岩さ


「岩さ」の本名が岩二郎だったのかあるいは岩介だったのかは分かりません。 ただ、いつも着物を着てシナシナと歩く様がまるで芸者のようだったので、 呼び名も屋号も「芸子岩さ」となっていたのです。

 

一応大衆食堂と分類しましたが、食べ物なら食事からお菓子まで何でも出てきたお店だったようです。 戦前、この辺りは姫街道の松並木がずっと植田を経て八事まで続いていました。 その間を歩く岩さの姿は、女の人が見ても美しかったそうです。

 

いずれにしても、平針の古き良き時代の話です。

 

演芸 : 京土座


平針が誇る地場産業、京土。この仕事に携わる人たちを、平針人は敬意を込めて「京土門人」と呼んでいました。

この京土門人が経営していたのが、京土座です。

収容人数は百五十人程だったでしょうか。椅子席ではなく、ゴザ敷きだったように思います。

京土座には映画や旅回りの一座なんかも来演し、 天白のみならず近郷近在から芝居見物の客がやってきていましたから、 いつもいつも超満員の大盛況でした。この辺りの娯楽の殿堂になっていたわけです。

この芝居小屋も戦争とともに、なくなってしまいました。