あとがき


私が新聞屋に嫁いだのは22歳の春だった。

 

先方が商売屋であること、古い歴史を持つ一族の本家であることなどで、 私の周囲の者は先行きを心配していた。苦労することが目に見えているというわけである。

 

ところが皆様のご心配など全くの杞憂、私はみるみる平針の水に馴染んでしまった。面白いのである。 会う人会う人がことごとく個性的で様々な魅力に富んでいた。

別に奇抜な格好をしているのではない。突飛な行動をとるわけでもない平針の人々がなぜかくも面白いのか。 言葉だった。言葉による表現だった。

 

「人は体なり」とも「人は衣なり」とも言うが、私は「人は言葉なり」だと思っている。
その土地の人が使う言葉でその気候風土が思いやられ、その人の使う言葉はその来歴を物語り、 語りの中でその人の感性や人となりを伺う事が出来るのである。

 

名古屋弁ではあるが少々ニュアンスが異なる平針弁。
田舎と一口では括れないどこか闊達でユニークな平針人。

私は彼等とその言葉にがぜん興味を持った。

 

一番の刺激剤は今は亡き村瀬ヲギというおばあさんだった。1900年生まれのヲギさんは新聞屋の先々代、 村瀬門太郎の娘である。

ヲギさんは在所(実家)に来た新嫁御が心配でたまらなかったらしく、 毎日足繁く新聞屋に来ては私相手によもやま話をしていった。

 

私は何しろ「名古屋からござった嫁さん」であるうえに、茶髪で爪はマニキュアで真っ赤。 ふつうなら化粧も服装も控え目にしなくてはならないのだろうが、 一度も社会に出たことがない私にはそのような知恵がなかった。

普通のところであれば当然おとがめがあるのだろうが、 ヲギさんは派手な私を咎めるどころか逆に褒めちぎってくれた。

 

近所や親類の人々には「オレが名古屋の大学から見つけて来た娘だじょ」と言って自慢までしてくれた。 ヲギさんは独特の語り口でよもやま話をしながら、やんわり私を躾けてくれたのだと思う。 私は爆笑しながら嫁ぎ先の風習を飲み込んでいった。

 

 

嫁いでしばらくすると地下鉄が開通した。

 

 

平針は人口爆発し、旧住民と新住民の比率はあっという間に逆転した。 私は自分が感じた平針の魅力を新旧の住民の皆様にも認識、あるいは再認識してもらいたいと思った。 平針弁を語ればすべてが語れるのではないかと思った私はさっそく中西和市氏を訪ねた。

 

中西さんはヲギさんの娘婿で、私の仲人さんでもある。
長いお役所勤めのかたわらいち早く平針弁のユニークさに着目し、 言語収集を中心に研究を続けてこられた人である。

「よし、音符はワシが提供するで、淳ちゃんが若い人にも分かるように作詞作曲しやあ」

こうしてこの「和市淳子の平針弁講座」が始まった。

 

村瀬新聞店発行のミニコミ紙「紙ひこうき」にこれが連載されるや大きな反響を呼び、 和市と淳子は大忙しになってしまったのだ。

連載が終わると欲が出てきた。(本にしたい!)。

本にすることが決まるとさらに欲が出てきて古き良き時代の平針を紙上に再現したくなった。 和市と淳子はまたも2人だけのプロジェクトを組んだ。

こうして出来上がったのが「和市淳子の平針弁講座」である。

 

たくさんの思いで話を聞かせてくださった多くの方々、まことにありがとうございました。 毎章ごとにあたたかなイラストを添えてくれた大矢恵利子さん、 あなたのお陰で私の駄文が生き生きとした精細を放つようになりました。

そしてこの本(和市淳子の平針弁講座)は、享年95歳で永眠するまで「平針の新聞屋の娘」 としての誇りを持ち続けた村瀬ヲギさんに捧げたいと思います。

 

平成12年10月 村瀬 淳子

※ 2000年出版「淳子・和市の平針弁講座」より