能ある鷹は爪を隠さなければクラスに居られない


ある若き研究者たちが中学校一年のクラスで実験授業を行なった。テーマは「言葉」である。

クラスは37名。これまでの経験律から、頭の回転が速く、したがって知らない部分を質問したり、何かを示唆している部分への反応が早い子は20人に一人と踏んでいた。そういう子がいないと授業は盛り上がらないし、進めにくい。

講師はまず文化(この言葉は決して使わないようにした)によって名称が使い分けられていることの説明として、日本では「牛」と呼ばれているものが、英語では雄牛・牝牛・去勢牛・子牛と呼び分けられており、肉になった場合もビーフとビール(仔牛)と呼び分けられていることも説明した。
子どもたちは(そんな沢山の名前があるのか…)程度の静かな反応。

次に講師は米の名称について説明した。田んぼに生えている時は稲、生の時は米、炊けばご飯と。
すると生徒の一人が「今度は逆になるんだ!」と発声してくれたので、クラスの雰囲気は一変し、一気に授業は進んだ。講師の誘導もあるにはあったが、なぜそのように呼び分けられているのかの問いに「それぞれの人によって大切な違いだから」という本質的な回答が生徒の中から出た。また「食文化が違うから」という最も引き出したかった回答も出た。

37名から2名。その2人がそろってなぜか小柄。
栄養が頭だけに回っていそうな子たちで、雰囲気からしてかなりクラスからは浮いている存在であることが見受けられた。他にも「文化」というキーワードを小さくつぶやいている子もいたが、クラスの中で声を出せないらしく、先ほどの2名のようにはぶつけてこなかった。

声を出す者(=能力の高い者)は「浮く」という雰囲気がもうすでに出来上がっているのだろう。もったいないことだと講師は思った。
高校までしっかり心を保てよ、と祈らずにはいられなかった。

KID'S倶楽部 Vol.177:中坊白書