青少年育成編


山の子


平針では、京土と言う上質な壁土の製造が盛んに行なわれる時代がありました。 原材料である土は山から掘られるので、京土製造業者を中心に「山の神様」を祭るようになりました。

京土屋さんの子供たちが何となく集まりだしたのが「山の子」の始まりです。 それが平針中に広まり、やがて地域の各組ごとに小集団を作るようになったのです。

 

「組」とは東町、本町、中町、西町、原の五組です。

この「組」は、町名が変わろうと学区が別れようと已然として生きていて、 名を名乗るときには「中組の須賀です」というように現在でも使われています。

 

「山の子」たちの最大行事は毎年十二月に行なわれました。

山の神を祭る「宿」と呼ばれる代表者の家に小学生が集結、あるいは合宿して七日間を共に過ごすのです。 だいたい三年生ぐらいから参加して、六年生が親方です。

食事は宿の方に作って頂くこともあるのですが、基本的に自給自足。 親方の指導のもと、燃料の薪拾いから始めるのです。 

メニュ-は、今ならさしずめカレ-ライスといったところでしょうが、当時は「混ぜご飯」。 材料は「お分利(ぶり)をお願いします」と言い歩き、商店などから米、肉、野菜などを無料で頂いたのでした。

 

山の子行事のヤマ場はケンカ。
ケンカの理由なんて特にありません。他組の「宿」に殴り込みをかけるのです。 武器(といってもせいぜい竹の棒ぐらいですが)を準備し、作戦も立てての集団戦が展開されたのですが、 親たちは何も言わずに微笑ましく眺めているだけでした。

 

「山の子」は子供会とボ-イスカウトが合わさったような雰囲気ですが、何よりも地域ぐるみで子育てをし、 その集団の中で子供たち自身も育ち合った素晴らしい組織だった、と今にしてみればしみじみと感じます。

のん気な時代だったからでしょうか。

 

 

若い衆


平針の各組(東・本町・西・中・原)にはそれぞれ集会所があり、男子十五才になると一升瓶を下げ、 「若い衆に入れてください」と頼みに行ったものでした。

「若い衆」というのはお祭りの序列のことです。

十五才で若い衆となり、二十五才ぐらいでその頭(かしら)、卒業すると「中老」になり、 お祭りの中心的存在になります。さらに年を経ると「杖」という花形をつとめ、 第一線を退いて「長持ち」という役で終了。

お祭りの序列とはいっても、若い衆は若い衆なので当然使い歩きなどがあり、 忙しかったりするのですが、 目上の人たちのすることを見、聞きするうちに社会人としての諸事万端を身に付けていったのだと思います。

 

さてそのお祭りですが、若い衆の役割は「棒の手」です。
棒の手は「木遣り音頭」とともに平針の文化財です。しかし、もともとが武術なのでお祭りとは言え、 その練習はかなりハ-ドだったようです。

勤め人などごくわずかだった時代、農作業を終えた身には応えただろうと察せられますが、 平針の青年にとっては「男の儀式」だったに違いありません。

 

平針の大きなお祭りは二つあって、若い衆が棒の手をし、中老が馬を引き、 紋付に身を正した「杖」が馬の先頭を行くのが秋祭り。

もう一つは「天王祭」という夏祭りでした。
天王祭は若い衆だけで執り行ないました。場所も昔は秀伝寺の前だったのですが、 神様のお引っ越しがあったので、現在は針名神社で行なわれています。

 

時が流れ、若い衆もその上の人たちもほとんどが学校や仕事で外に出るようになってしまいました。 若い衆の名残りはわずかに「消防団」が引き継いでいますが、それとてもなり手が年々歳々減っているようです。