姫街道
2000-01-01 00:08:59
徳川家康の命により、平針宿が設置された経緯は平針の沿革で申し上げた通りです。
家康が欲しかったのは近道でした。 時は戦国時代末期、軍事的要素が大であったわけです。 現に家康は大阪夏の陣、冬の陣ともにここを経て軍をすすめています。
前出の伝兵ェさんはその覚え書きの中で、1、慶長20年(1615)卯4月、 大阪御陣之節、御軍勢御通行之砌(みぎり)、御休泊被仰付、相勤申候。 と記しています。
ところが晴れて徳川の御代となり、天下が平定されてくると、 この軍事道路として整備された街道が俄然、経済道路として活気を帯びてくるのです。 なにしろ場所が良い。本陣を通過すると東口で道が2手に別れ、右へ行けば岡崎へ、 左に行けば信州飯田へ到達するのです。
また西に目を向ければ平針の西口でこれまた道が2手に別れ、 まっすぐ行けば八事を通って名古屋や清洲へ、左へ行けば熱田へ到達するのです。
この道は熱田街道とも呼ばれていますが、この道から平針を経て飯田に抜ける道が有名な「塩の道」です。
紅葉で有名な足助の香嵐渓を、山とは反対の方向に一筋入ると、 白壁と連子格子の商家の家並みが、江戸時代さながらに続いています。
ここは塩の道の中継地で、熱田から運ばれた塩を始めとする海産物がここでさばかれ、 あるいはまとめられて遠く海のない信州飯田まで、また運ばれたのです。 飯田から熱田へ行くときは、もちろん空手ではありません。 りんごなどの山の幸を名古屋へ持ってきたのです。
大きな街道の分岐点にあたり、しかも東海道のバイパス的要素も併せ持つこの道が、 いかに人や物で賑わったかご想像いただけると思います。
さてこの街道の名称ですが、岡崎街道・熱田街道・飯田街道と繋がっているために、 様々な呼びかたがありますが、「平針街道」や「姫街道」が一番妥当ではないかと思われます。
家康自身はこの道をある文書の中で「東海道姫街道」と書いています。 御姫様が行列した道だから「姫」がついているともいわれていますが、どうでしょう。
一般に姫街道と言われるときは、女性が多く通った道のことを指します。 また、姫具や姫百合など「姫」には御姫様と言う意味のほかに「小さくて愛らしい」 と言う意味もありますから、「東海道の小さな道」ということで姫街道というのが、 順当ではないかと思います。