姫街道


徳川家康の命により、平針宿が設置された経緯は平針の沿革で申し上げた通りです。

家康が欲しかったのは近道でした。 時は戦国時代末期、軍事的要素が大であったわけです。 現に家康は大阪夏の陣、冬の陣ともにここを経て軍をすすめています。

 

前出の伝兵ェさんはその覚え書きの中で、1、慶長20年(1615)卯4月、 大阪御陣之節、御軍勢御通行之砌(みぎり)、御休泊被仰付、相勤申候。 と記しています。

ところが晴れて徳川の御代となり、天下が平定されてくると、 この軍事道路として整備された街道が俄然、経済道路として活気を帯びてくるのです。 なにしろ場所が良い。本陣を通過すると東口で道が2手に別れ、右へ行けば岡崎へ、 左に行けば信州飯田へ到達するのです。

 

また西に目を向ければ平針の西口でこれまた道が2手に別れ、 まっすぐ行けば八事を通って名古屋や清洲へ、左へ行けば熱田へ到達するのです。

この道は熱田街道とも呼ばれていますが、この道から平針を経て飯田に抜ける道が有名な「塩の道」です。

紅葉で有名な足助の香嵐渓を、山とは反対の方向に一筋入ると、 白壁と連子格子の商家の家並みが、江戸時代さながらに続いています。

 

ここは塩の道の中継地で、熱田から運ばれた塩を始めとする海産物がここでさばかれ、 あるいはまとめられて遠く海のない信州飯田まで、また運ばれたのです。 飯田から熱田へ行くときは、もちろん空手ではありません。 りんごなどの山の幸を名古屋へ持ってきたのです。

大きな街道の分岐点にあたり、しかも東海道のバイパス的要素も併せ持つこの道が、 いかに人や物で賑わったかご想像いただけると思います。

 

 

さてこの街道の名称ですが、岡崎街道・熱田街道・飯田街道と繋がっているために、 様々な呼びかたがありますが、「平針街道」や「姫街道」が一番妥当ではないかと思われます。

家康自身はこの道をある文書の中で「東海道姫街道」と書いています。 御姫様が行列した道だから「姫」がついているともいわれていますが、どうでしょう。

 

一般に姫街道と言われるときは、女性が多く通った道のことを指します。 また、姫具や姫百合など「姫」には御姫様と言う意味のほかに「小さくて愛らしい」 と言う意味もありますから、「東海道の小さな道」ということで姫街道というのが、 順当ではないかと思います。