平針の沿革


平針という地名


平針という地名は古い本を見ても正確な資料はありません。
ただ、日本書紀や万葉集の時代に、開墾した田圃のことを「ハリ」と言っていたようですし、 「懇」も「ハリ」と読みますから、平針はたぶん「平たい開墾田」だったので、 それをそのまま地名にしたのだろうと察せられます。

すぐ近くには「高針」という地名があります。このように昔の人は地形や地勢を そのまま地名にしたり、苗字にしたりしていたわけです。

 

平針村の起こり


慶長16年(1611)、徳川家康がこの地を通過した折、ここ平針を「駅」に定めました。
「駅」とは古代の交通制度のひとつで、公用の旅行や通信のために馬や人夫などを常備している所のことです。 このあたりの件りを「尾張徇行記」はこう記しています。

 

「平針村は、民家僅か16ある由。今に其所を本郷と申伝へり。 慶長17年(1612)神祖(家康)三州岡崎より名古屋への近道を考玉ひて、径もなき山中を通り玉ひ、其のころ此村の平子山に御輿を留められ、 時の村長仁右ェ門と云者を召させられ、平針村をこの山に引き越させ、向後町並をたて、伝馬役を勤むべしとの上意ありければ、仁右ェ門申上るには、 小村にて貧家僅かに16戸なれば、上意は黙止がたけれども、御伝馬如何可奉畏やと、左右陪従んの輩へ訴へければ、難有も上意にて仰付けられるには、 16戸共に此所引越、其外諸方浪人まで令免許、問来り次第町並を立て、伝馬役つとむべし。

最も諸役御免、居屋敷御除の旨御直々上意あり。今に伝馬役を勤めたり。 其上にて平針村には、汝等が菩提寺あるやと問はせ玉ふ。

時に仁右ェ門申し上げるは、昔より繍伝寺と申寺、並に塔祠有之しが、(仏法庵今の観音堂是なり。1つは慈眼庵、今の秋葉堂是也)。 文禄元年(1592)壬辰冬焼失し、其の後は16戸の檀家、いずれも旦那寺思ひ思ひに他寺たのみし故、小村と申し無住地となり、廃壊したる由申上げり。 時の上意にて、支配の御代官勝野九郎兵ェへ命ぜられ、彼等がために一寺なくては叶ふまじ由にて、廃寺及廃壊の二塔祠堂共に、当村へ引移し玉ひ、 邑民元の如く秀伝寺の檀越となれり。此村、慶長17年(1612)以後三州岡崎への駅場に仰付けられ、屋敷2町3畝19歩御除地になる」


これはどういうことかと言いますと、つまりその昔、徳川家康が岡崎から名古屋への近道が欲しいなと考えてリサーチしていたら、 ここ平針あたりが諸条件ぴったりだった。

そこで村の村長を呼び出して「町並を整えて伝馬役を勤めよ」と命令したわけです。 ところが村長は、「ここはご覧の通りの貧乏村、わずか16軒では御伝馬役などという大それたことは ようやりません」とお付きの人達におずおずと訴えたのです。

 

平針は「宿」としてのロケーションがよほど良かったのでしょう、 家康が「じゃあ何でも良いからまずその16軒がみんな引っ越してきて、 浪人からなにから寄せ集めて、とりあえず町並だけでも作りなさい。 そのかわり難しい役やいろんな義務は無しにするから」と好条件を提示してきたので、 村長の仁右ェ門さんは承諾したということなのです。

 

徳川家康という人はやはり苦労人ですね、色々なことに気働きができます。 「ところで、ちゃんと旦那寺があるのか」とそんな心配までしてくれたのです。
「繍伝寺という寺があったのですが火事で焼けてしまったので、みんなが思い思いの寺に頼んでいます」 と仁右ェ門さんが答えると早速御代官様に命令して秀伝寺を作ってくれたのです。

 

かくして慶長17年(1612)、仁右ェ門の自宅(現在の消防団詰所あたり) を本陣として平針宿が成立するに至ったわけです。

そして屋敷2町3畝19歩といいますから約6000坪の土地の租税が免除され、 庄屋仁右ェ門は「村瀬」という苗字と帯刀が許されたのでした。

 

区画整理や村おこしとは比較にならないほどのこの激変が、 村サイドで記録されていないはずはありません。 仁右ェ門の子孫である伝兵ェが「平針村に 関する由緒書」としてきちんと記録書を残してくれています。

それに拠りますとあの仁右ェ門は村瀬四郎右ェ門という元上杉家の浪人の孫であったようです。 その四郎右ェ門の時代には平針宿から2町ほど北の元郷に平針城があり、 城主は同じく上杉家の家臣であった小野田勘六。四郎右ェ門は平針城の側に住まい、 農業に従事して平針城の東西に多くの田を切り開いたのだそうです。

 

その後、城主小野田勘六は「行衛不知落城仕」とありますから、どこかへ出奔してしまい、 お城は落城したようです。

その後、16軒で細々と農業を営みながら月日が流れ、仁右ェ門の時代にな って「恐れながらも御神君様の御上意」によって平針宿が置かれた、と記され ています。

 

「有り難くお請け申し上げた」後、方々から沢山の人々が寄り集まって人家も 増え、僅か16軒があっという間に100余軒を数えるようになったようです。

なにしろ岡崎―名古屋間の近道、御用物の行き来はもちろんのこと、 旅客や諸荷物が頻繁に行き交い平針宿はおおいに繁盛しました。 そうなるともう感謝でいっぱい。伝兵衛さんは「有り難き仕合わせ、恐れながらも神慮の御厚恵」 を後の代まで勤めさせていただきますと忠誠を誓っているのです。

 

さらに伝兵衛さんはこの平針宿と村瀬家について細かい記録を箇条書きでのこしました。 原文はほとんど漢文ですから読み下します。

 

一、平針駅設立に関して。

 

御神君様が通られたおり御休憩なされ、此の地を本陣にと仰せられて仁右ェ門に 苗字帯刀お目見え御免の御許可をお与えになり、問屋庄屋を勤めよと御下命されたので、 当家は隣国や近郷近在からも平針御本陣と呼ばれて当駅御通行の諸家様方の御休憩や お泊りにお使い頂いて参りました。

 

しかし、仁右ェ門の長男である十右ェ門と申す者が病身で引退したため、その 弟の茂兵衛が幼年で家督相続をしたが、間も無く病死したので(仁右ェ門家 は)跡絶えてしまったが、御本陣の御用は連綿と故障のないように当方が勤め て参りました。

 

ここで少々解説します。

この文章を書き記した庄屋伝兵衛さんは、 仁右ェ門の子孫ではなく、中絶した村瀬家を引き継いだいわば養子の子孫ということになります。 この養子さん、本名を竹内伝兵ェといい、桶狭間の合戦(1560)の今川義元方の残党であるらしいのです。

 

さて、このようにして成立した平針宿、その面影は僅かですが残っています。 平針4丁目の須賀小八郎邸には厩の跡があり、バス亭前の水野邸は典型的な旅籠建築です (しかし旅籠経営の経歴はないとのこと)。

この平針宿がいかに繁栄繁盛していたかは「姫街道」で詳しく説明しようと思います。