それぞれの老い① 《政子はキレイだから》


 伸明は九十歳近いのだが、長身痩躯なうえに姿勢も良いのでなかなかダンディだ。
出征する直前にバタバタと結婚し、戦後戻って来たら新妻の手には長男が抱かれていた。ハラハラと涙が落ちた。戦乱の中、妻は一人でこの子を産んで育ててくれていたのか。伸明は、まだ幼さが残る妻を愛しく思った。そして日本一幸せにしようと心に誓った。
世の中も徐々に落ち着きを取り戻した。伸明はがむしゃらに働いた。しかし世の亭主族のように会社帰りに一杯というつきあいは一切しなかった。あれから更に二人の子どもに恵まれ、妻は子育てにおおわらわなのだ。酒場でクダを巻く気にはなれなかった。
一番下の子が乳離れをすると伸明夫婦はさかんに外出するようになった。今日はフランス料理、明日はお芝居と、妻の政子は夕方になると子ども用に簡単な食事を整え、おめかしをして夫の帰宅待っていた。「お父さんとお母さんは今から青春を取り戻すんだ」と子どもたちに宣言したのだが、そんなことが幼児に理解できるはずもなく、はしゃいで玄関を出る両親を下の二人は毎回泣きながら見送っていた。
長男が大学生、妹と弟が中学生のとき、伸明に転勤命令が下った。学校のことがあるから子どもたちの引越しはまずい。普通なら単身赴任となるところだが、「お父さんとお母さんには新婚時代がなかった」という理由で、二人はさっさと赴任地へ行ってしまった。大学生の長男は食事や弁当作りまでして妹と弟の世話をし、受験も長男が親代わりとなって面倒を見た。
やがて長男は結婚。当時の当たり前に従って同居したのだが、夫にちやほやされて生きてきた政子は、嫁を召使のように遇した。伸明も政子のご機嫌が第一だから容赦なく嫁を怒鳴りつけ、二世帯同居は崩壊した。長男は小さな頃からの我慢を一気に叩きつけ、両親と決別した。
今、伸明夫妻は高級老人ホームに入居している。足も立たず何も分からなくなった政子に化粧を施し、着飾らせて車椅子で散歩させるのが伸明の日課だ。胸にはブローチ、帽子にはコサージュをつけるのが伸明の楽しみの一つ。時折様子を見に来る娘が「そこまでしなくても…」と言うと、「政子はお前と違ってキレイだから、おしゃれしてあげなくてはならんのだ」。

2008.4.25発行 み・まも〜る5月号 Vol.12