保育園育ち


午後九時、まるで決まったように電話が鳴ります。もう、三十年も前に卒園したA君です。もともと知的障害を持つ男子で、今は簡単な玩具の組み立てと作業場の清掃に従事しています。電話の内容は自分の仕事と、「保育園の先生は元気か」、「困った子どもはいないか」、そして、「僕もがんばっているから応援してね」です。時には製品の売り込みも仕掛けてきますが、その製品は保育園で使用するものではなく、「ごめんね」というとあっさりあきらめます。
三十三年前、彼が入園してきました。ハンデを持つ子に対しての支援体制が作られるのは最近のことで、当時は保育上の基準もなく、普通クラスに入ります。が、彼の身体は普通児よりふた周りほど大きく、元気で走り回りまわり、部屋を飛び出したりするのは日常的なことでした。
ある日、園長室にいると担任保育士が彼を連行して来ました。何があったのか、冷静な彼女もさすがに堪忍袋が切れたのでしょう「注意して下さい!」と言い残してさっさと帰ってしまいました。

園長の前で緊張…していたのは数分。彼の人懐っこい顔につられたら、もう負けです。以来彼は毎日園長室に来るようになり、やがて給食も園長と一緒になりました。保育士は…迎えに来ません。若かった園長は本を読み聞かせ、相撲もしました。いろいろな話もしました。

一度だけ本当に怒りました。
給食がカレーだったときのこと、食べているとき電話が鳴り席をはずしたのですが、帰ると量が増えているのです。彼がニヤニヤしています。口に入れたあと私のカレーに戻したのです。これは怒りましたね。

その彼が電話をくれます。他の卒園児は誰も電話はくれません。最近は「ここは彼の戻る場所なのだ」、そう思って電話を待つのです。 

KID'S 倶楽部 Vol.196 幼年図鑑