気まぐれ旅行


悲しいかな、年をとると病院が一つのふれあいの場になってきてしまう。74歳の恒夫さんも週に数回、決まった時間に外の空気を吸いながら通院している。会社をリタイヤした一人暮らしの生活なので、通院がないとめっきり人に会う機会が減ってしまう。

病院の待合室には、いつも決まった顔ぶれの患者が待っている。いつもの顔ぶれがそろっていないと「あの人、病気が悪くなってしまったのだろうか?」等と考えてしまう。たいていは誰かが何かを知っていて「あの人は旅行に行くって言ってましたよ」等という情報が出てきて皆がほっと胸をなでおろす。皆似たような病気を抱えているので、決して他人事ではないのだ。

人と会話をするのは病院での待ち時間がほとんど、と言っても言い過ぎではない生活を送っていた恒夫さんに、遠方に住む妹から突然電話がかかってきた。

同年代の人から突然連絡があった時は、誰かが死んだ時と決まっていたのだが、妹からの電話はそうではなかった。

「元気にしとるかね」とお互いの健康状態を確認したら、「何して遊んどるんかね」と時間のつぶし方等の情報交換をした。妹夫婦も既に会社を退職し、老後を楽しむ生活を送っている。

向こうはこちらと違って自然がいっぱい等という話を聞いていると、遊びに行きたくて仕方がなくなってくる。もともと恒夫さんは妹夫婦と仲が良かった。今は離れてしまっているが、昔はわりと近所に住んでいた妹の旦那と連れだって遊びにいったものである。

そんな事を思い出して受話器を握っていると「旦那も会いたいっていっとるに、お互いヒマしとるんだからタマには遊びにいらっしゃい」と妹が言いだした。待ってましたとばかりに恒夫さんは「来週にでも遊びにいくわい」と決めてしまった。

旅行になんかめったに出かけない恒夫さん。当日は必要以上に戸締りを確認。ガスの元栓なんか3回も確認した。十数年ぶりに会う妹夫婦を思い浮かべては浮足立って出かけた。

家を出て数時間、田舎の漁師町にすむ妹夫婦は恒夫さんを歓迎してくれた。日中は妹の旦那が恒夫さんを連れ出して魚釣り。夜は妹のつくった自慢の干物に新鮮な刺身を食べながら酒を飲む。普段は病院でいわれた食事制限を律義にまもっている恒夫さんも、今回ばかりは歯止めがきかない。それは妹夫婦も同じだと言って、大いに笑った。

思い出話をしつくした頃には4日もたってしまっていた。2日くらいで帰る予定ではあったのだけど、それだけ楽しい時間を過ごしたということだ。「また遊びにいらっしゃい」と駅まで送ってもらった恒夫さんは、後ろ髪を引かれる想いで帰路についた。

「遊びすぎたな」等と反省しながら電車を降り、バスを降りた恒夫さん。ようやく自宅が見えてくると何やら様子がおかしい。自宅の前に数人の人影とパトカーが止まっているのが見えるではないか。恒夫さんは「空き巣に入られた!」と早足になる。

「どろぼうが入ったか!」と恒夫さんは家の前にいる顔見知りの近所の婦人に声をかけると、「あああっ!」と尻もちでもつきそうな勢いで驚かれた。と、同時に婦人は「おまわりさん! 待って! 待って!」と玄関口に向かって叫び出した。

家の前に辿り着くと、皆に不思議な視線で見つめられる。どうやら空き巣に入られたわけでも放火されたわけでもなさそうだった。「何だ? どうしたんだ?」と恒夫さんは不思議そうな顔をした。

聞けば、近所の人は最近恒夫さんをみかけないし、新聞はポストにたまっている。病院にも顔を出していないようで入院した様子もないと言う事で、恒夫さんは家の中で孤独死しているのではないかと思われていたそうだ。
近所の人が警察に連絡し、ドアを破るところだったと言うではないか。慌てて赤面した恒夫さん。帰ってくるなり玄関口で皆に大説教をされるハメになってしまった。

旅行に出かける時は誰かに言うように。新聞はお休みの連絡を入れておかないと空き巣に入られる。携帯電話を持ちなさい、等々。全部病院の待合室で話題になっていた内容ではないか…。

浮足立って皆に迷惑をかけてしまった恒夫さんは、反省したのもつかの間。「また妹夫婦に話すネタができたぞ」とほくそ笑むのであった…。

2010.05.25 発行 み・まも~る6月号 Vol.37