ミックスジュース


ミックスジュース

ハルさんは数年前に旦那さんを亡くした一人暮らしの80歳。
2年近く旦那さんの介護が続いけていたハルさんは、一人になってしばらくは気落ちしていたものの、今ではすっかり元気になった。昼間は庭で家庭菜園、夜はアイドルタレントを孫のようにテレビで応援するのに忙しい日々を送っている。

ハルさんの家には、近所の人や古くからの友人などが二日に一度は顔を出しているようだ。たまに娘が顔を出すと来客中だったりする事があり、遠慮して帰ろうとすると「今日は娘と出かける約束してあったから、ごめんね」と客人を追い出すように帰してしまう。

娘が「そんな、ごゆっくりして行って下さい」と言っても、客人は「いえいえ、私はごぶれいします」と帰っていく。本当は約束なんかしていないので、娘としては悪いことをした気分になる。

娘が来ると、ハルさんは毎回「ウチにくる人は、嫁の愚痴を言いにくるか、宗教やマルチ商法の勧誘ばっかりだ。相手をするが疲れて仕方がない」と言い、「コーヒーでも飲みに連れていって」と、車で10分の喫茶店にいくのだ。

その日、ハルさんは喫茶店に入ると「今日はコーヒーじゃなくて、ミックスジュースにしようかな」と、ミックスジュースを注文した。
この喫茶店のミックスジュースは大きいコップに入ってくる。『長靴』をモチーフにデザインされた可愛いの大きなコップで、たっぷり飲めるのが店のウリだ。

しばらくしてミックスジュースが運ばれてきた。娘が「大きいね。飲めなくなったら残した方がいいよ」と言うとハルさんは「あぁ」と言ったきり沈黙してしまった。コップを見つめたまま、ストローを手に取ろうともしない。
娘は「どうしたの?お母さん」と声をかけた。内心はボケてしまったのかと思い、焦っていた。

すると、ハルさんは決心したように店員を呼び止めた。
「すみません。器を変えてもらえませんか?」とハルさんが言うと、店員と娘は「えっ?」と声を出した。虫でも入っていたかと、二人はミックスジュースを覗き込む。

「私は数年前まで、動けなくなった夫の介護にかかりきりの毎日を過ごしていました」とハルさんは話し出した。店員は「はぁ」としか店員は答えられない。「毎日、食事やお風呂、下の世話まで、大変な日々を過ごしていました」と言われた店員は、完全に困惑している。
娘は「ちょ…ちょっと、お母さん!」とあたふたする。

ハルさんは、最後に声をひそめて「この器をみていると、介護で使った『しびん』が思い出されてとても悲しくなるんです。器を変えてもらえんでしょうか?」と小さな声で笑いながら言った。店員は深刻な顔で「それは大変失礼いたしました」と慌てて器をさげた。

娘は心配が吹き飛んで、笑うしかない。
「お母さん、ボケたかと思ってびっくりしたじゃん」と言うと、ハルさんは「ごめんね。どうしても我慢ができなかったの」と、器を変えて運ばれてきたミックスジュースのストローを、うまそうにチューチュー吸った。

ハルさんは、旦那さんの死後、決して旦那さんを悪く言うことはない。生前には口にしていた愚痴も一切口にすることはないが、心の中に色々な思いをため込んでいるのだと、娘は改めて思い知った。

2009.11.25発行 み・まも~る12月号 Vol.31