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《文化侵略》
 『侵略』とは物々しい表現だが、武力侵略と違って文化侵略は侵略される側が喜んで受け入れるところに真の恐ろしさがある。気がつけば国家アイデンテティ消失、という事態にもなりかねない。
 これまで日本は数々の文化侵略を受けたはずだが、呑まれることなく単なる接触に終わっている。
 例えば漢字。漢字とどう闘うか向き合うかは、アジアにおけるアイデンテティ闘争だった。ベトナムは漢字を受け入れたものの漢字だけでは自国語を十全に表現できないので、意味を表す文字の横に発音を表す漢字をルビのように添えて一つの文字とし、漢字よりも更に難解なベトナム文字を成形して漢字に完敗した。漢字を簡略化した仮名という「音を表す文字」を作り出した日本とは間逆である。さらに日本は漢文という外国語に記号等をつけて、日本語として読み下す方法まで発明している。
 もうひとつは仏教。八百万の神を奉る日本は「本地垂迹」つまり、「この神様の正体は本当はこの仏様ですよ」という説を打ち立てる事により神道を生き延びさせ、少なくとも神の名は残せた。しかし他の仏教国は地元の神の名すら残っていない。つまり仏教に乗っ取られてしまったのだ。
 仏教と漢字はほぼ同時期に日本へ入ってきているのだが、日本が仏教に乗っ取られなかったのは仏教が広まる前に古事記が出来ていたのが大きい。ローマ軍の捕囚となったヨセフスの『ユダヤ戦記』と『ユダヤ古代誌』の二冊が古代ユダヤを生き残らせたのと同じだ。我々はヨセフスの著書がなければ、サロメがヨハネの生首を所望したことを知らない。旧約聖書にはサロメの名すら出てこないのだから。    
 日本の文化的体力は、言葉を変えれば異文化に対する偉大なる消化力だ。しかしその消化力をもってしても抗えなかったのは、アメリカのホームドラマだった。高度成長期に我々が夢見た生活とは、『うちのママは世界一』に見られた電化製品であり芝生の庭であり、子供の個室だったのだ。
 が、日本はしぶとい。靴履きのままリビングでくつろぐ日本人はほとんどいない。お茶の間は残った、と言うべきか。

2008.3.14発行 エコノミスト●なごや Vol34